「避難民ひき殺してゆけ」 司馬遼太郎記すエピソードの真偽は?
1943年秋、大阪外国語学校で学んでいた福田定一、後の司馬遼太郎は学徒出陣した。戦車兵となったものの、日本軍の主力だった97式中戦車は、米戦車などに比べて装甲が薄く火力は弱かった。
他の学徒兵同様、司馬も「何のために死ぬのか」を考え続けていた。日本を守る、子どもたちを守る--。そんな気持ちであったことを、他のコラムなどで書き残してもいる。
ただ、司馬が聞いたとする「(大本営の)相当な戦術家」による無慈悲な放言については「本当にそんなことがあったのか」と疑う向きもある。戦史に精通している現代史家の秦郁彦氏はその真偽に迫った。
まず司馬がこの体験に触れたコラムなど7件を挙げ、微妙な相違点があることを指摘した。たとえば「ひき殺してゆけ」問答の質問者が司馬自身であったり、「ある将校」だったりする(「司馬遼太郎と戦車」=『昭和史の秘話を追う』収録)。
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